信じる勇気をとりもどす旅

思考、感情、こころの、点と点をつなぎ、本当の自分へ還る方法を探します。

90日目:わたくしという根っこのかたち

会社を辞めてしばらく、あまり人に会わず、テレビも見ず、新聞雑誌もネットニュースも制限をかけていたせいで、すっかり世情に疎くなっております。選挙カーが騒がしくなってきている毎日、ごきげんいかがですか?
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近所に咲いていたアガパンサスです。紫君子蘭。毎年すっと伸びた首の先に、わんさか美しい花を載せて、よく倒れないものだなぁとつい写真を撮ってしまいます。

わたくしの実家では、オレンジの君子蘭を育てておりました。
花のあと株分けをしていた父に、蘭なの?と問いましたところ、
「君子蘭は蘭ではないよ、クンシランというユリだよ。」
と、父が応えました。
「名前は蘭なのに蘭ではないの?どうしてユリとわかるの?」
と再び問うと、
「うーん、そうなんだから仕方ないよねぇ、でも今度蘭の花をみたら、よく観察してごらん。」
と、言われました。

そんな会話すっかり忘れておりましたが、改めてアガパンサスを見ると、見まごうことなきユリですね。蘭の花のつき方ではありませんでした。
最近、こんなふうに幼い頃の記憶がふと蘇ることが多く、そろそろお迎えなのかしらーと思ったりしております。

クンシランはきっと、自分がユリと呼ばれようが、蘭と呼ばれようが、お構いなしだと思いますが、わたくしは、ついソレがなにか、ということにこだわってしまいます。蘭なら蘭らしくしておけって思ってるのでしょうかね。
ただ、美しい花として咲かせておけばいいのに。分類したがるのです。

花は花として生命をつなぐミッションがあるのだと思うのですが、ヒトもヒトとして生命をつなぐがミッションだった時代があるのですよね。
ヒトが、ただ命を次の世代へつなげられればOKだった時代は、いまよりもっと生きやすかったのでしょうか?

そんなはずはないのですよね。もっと生きて生まれることそれ自体のハードルが高かったはずでしょうし、病気、天敵、天災、飢饉など、どの時代を見てもいまより生存率低そうです。絶対この年まで生きられなかっただろうと思います。

いま、ちらりと調べてみたところ、日本人の平均寿命が五十歳を超えたのが、ようやく1947年から(1847年かと思わず二度見したけど、ほんとに69年前だったわ)らしいので、なんだわたくしもう死んでます。

今の日本に生まれてよかったよねー。
しかし、ただ生きていくだけ、生命を全うするだけ、では満足しなくなってしまったのは、この寿命のせいか!とも思ったりします。自分とはなんであろう、なんて思ってしまうとは、難儀ですよねー。

でも、それも含め、わたくしは楽しいと感じます。
病気でも、家族が苦しんでいるわけでも、貧乏ですらありません。贅沢です。
そのうえ、悩めるなんて贅沢すぎます。
ならば、難しく考えないで、自分の心地よいことをすればいいのですよねー。
珈琲淹れよう。

先の父との会話の続き、
「根っこを見てごらん、根っこを見ると、その植物の特徴がわかる。
水の多い土地を好むのか、乾燥した土地を好むのか。」

「根っこが、その植物の要だよ。花は次の世代をつなぐための器官、根っこは今自分がここに生きるために代々効率化されてきた器官。」

わたくしの根っこ、わたくしの今のために代々効率化されてきた根っこ。
どんな形をしているのでしょう。

太陽に太陽に大きく手のひらを広げるのに、あの花の大きさから想像できないほど、浅く細い根を張るひまわりのようにか、可憐な花なのに、ずっしりと落ち着きのあるヒヤシンスやチューリップの球根のようにか。

願わくば、泥をすすり水面に美しい花を浮かべる蓮の花でありたいと。
(レンコンですね)。

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