意識高い系社畜が会社をやめてからの記録

思考、感情、こころの、点と点をつなぎ、本当の自分へ還る方法を探します。

これが、自由って意味だったんだね。

「自由でいいですよね。」
って、言われることが多かった。

自分でも
「わたしは自由~♪」って思ってきた。
ずっとずっと。

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それが40を目前に、
なんだかしんどくなってきた。

自由だ!
好きなようにしていいんだ!

って思ってるのに、
羽ばたいても羽ばたいても
疲れと焦りだけがのしかかって
地面に引き戻される。
そんな日々の繰り返し。

だって、
あの頃望んでた自由は、逃避。

社会からの?
親からの?
他人の視線からの?

批判をされないために
敢えて、尖ったことをする。

批判をされることを承知で、
批判されることをする。

そして、それを
(それも大事な経験だったけど)
自由だと勘違いしてた。

バリバリに他人軸。
それすらも気がついてなかった。

そして、力の限り羽ばたいてた。

それもいつしか力尽き、地面に落ちた。
羽の動かし方もわからなくなっていた。

ま、そんなこともあるよねぇ。
段々年をとるんだもん。

重ければ脱げばいいし、
疲れるなら体力つけるしかない。

変わっていく自分に
素直でいればいいんだよね。

変わっていくことに、
自然でいることに、逆らってばかりいると
なんだか、とってもつらいことになっていく。

成長も自然。
であれば、
老いもまた、自然。

自分の心と体の声をきちんときいて
その声に従っていればいい。

身体の求める食事をして、
身体の求める運動をする。

心が求める本を読んで、
心が求めるお友達と会う。

すっごく素直に生きてる、
そしてそれが、すっごく自然。

すっごく素直で、すっごく自然。
これが、自由って意味だったんだね。

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秋から冬の夕暮れ空に思うこと。

インスタグラムで
夕暮れ時の写真を
よく上げているからか

夕焼けが好きなのですね
と、たまに声を
かけて頂きます。

2016/11/03 blog photo by horie sanae

そうです。
好きです、夕暮れが。

夕焼けが好きかと言われると
ちょっと違う気がしていて、
〈夕暮れ時〉が好き
と、いう方がしっくりきます。

夕暮れ時には、
日常であまり
感じることができない

地球の丸さや
宇宙の広さ

わたくしたちも
星の一部なんだと......

そんなことを
感じられるように
思うのです。

仕事してたり、
料理してたり、
人と会ってたり、

そういった日常では
感じられない
拡がり。

とか、

とおいとおい彼方との
つながり。

とか。

普段の生活を
しているとき、

わたくしたちは、
あえて、その
拡がりやつながりを、

〈感じないように〉
しているのではないか
と、思ったりします。

なぜでしょうね。

わたくしは、
怖いのではないかと
想像します。

ヒトが森から地上へ
降り立った時、
もっともっと、
空は広く、
闇は深かった。

いま、
夜になっても
都市に居る限り、
道は明るく、

わたくしたちは、
闇に飲み込まれるような
〈恐怖〉や、

広すぎて身の置き所のない
〈恐怖〉を、
経験することはあまりない。

ですが、
昔のヒトたちは、
闇に潜む敵や、
魔物に怯え

朝の光を待ちながら
生きていたかもしれない。

太刀打ちできない
宇宙の法則があり、
それに逆らい
生きることは出来ない。

太古のヒトは、もっと
宇宙の中にいる
その事実を実感しながら
生きていたのでは
ないだろうかと思うのです。

夕暮れに空に目をやると、

地球がまぎれもなく
ただ、星のひとつとして
太陽の周りにあること。

ひろいひろい宇宙のなかに
ただ、ただ、存在していること。

そして、
奇跡のようにいまここに
存在する自分。

なんだか、ちっぽけで
素晴らしいなぁ。

そんなことを感じるのです。

わたくしたちは
限りなく自由で、
限りなくちっぽけ。

そして、いまここが
愛に満たされている。

それを感じたくて、
夕暮れの写真を撮っているのかも
しれません。

horie sanae(@u.shima) Instagram写真と動画


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「怒り」と仲良くなる方法

「怒り」を表現することが苦手。
怒ってる人も、怒りを自分が感じる
事すら嫌い。
という方がいらっしゃいます。

逆に、何を伝えるにしても
「怒り」でしか表現できない、
という方もいらっしゃいます。

「怒り」とは不思議な感情です。

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歓喜」や「悲しみ」を
表現しようとすると
上を向こうが下を向こうが
黙ってようが叫んでようが
表情はやはり
歓喜」や「悲しみ」です。

しかし「怒り」は違う。
「怒り」には、
様々な表情があるのです。

眼を伏せようが、見上げようが
眉間にしわを寄せようが、
泣いても、嘲るように笑っても
奥底にある「怒り」が立ち現れることがある。

別の言い方をすれば、
怒りの表現だとしても、
その中に、悲しみや、寂しさ、孤独感など、
別の感情が漂うという表情もある。

これは、「怒り」が様々な側面を持つ感情
だ、という事ではないかと思います。

「怒り」にはまた、様々な表現方法があります。
燃え上がるように激高するパワーも「怒り」
相手に怒鳴り散らすも「怒り」。

そうかと思えば、
肩を落とした「あきらめ」も「怒り」
「愚痴や文句」そして、
傷つけられた!というような
受動的な表現もまた「怒り」です。

「怒り」は、〈感情の蓋〉
と呼ばれることもあり、
その下に、様々な感情を
隠しているとされています。

これは、「怒り」によって、
もっとつらい本当の気持ちに
〈蓋〉をして、感じないようにしている
ということです。

ちょっとイラッとした、
程度の事は、相手に伝えたり、
気晴らしに別の事をしたり、
そんなことで解決できるかもしれません。

しかし、何年も抱えている怒り
気がついたら即座に感情が
反応してしまうような「怒り」

それはじつは、
大きな傷や悲しみを抑えて
心を守ってくれている場合もあるのです。

怒りが抑えられない。
そんな方には、
その奥にある感情を探してみる
ことをおすすめしています。

心がもう二度と感じたくない!
と頑なに守っている感情を見つめてみる。
それは、ちょっと勇気の必要な行動です。

でも、
その奥で傷つきたくない、
とひざを抱えている悲しみや
寂しい、わかって欲しい、という思いを、
ちゃんと表に出して
感情を受け止めてあげること。

それができないと、
ずっと「怒り」によって
心を守らなくては、ならなくなるのです。

「怒り」を感じるとき、
それは、あなたへのサインです。

傷ついたね。
悲しいね。
寂しいね。

でも、守るからね。
という「怒り」からの合図。

そう思ってみると、
「怒り」もただ面倒な悪いヤツでは
なくなると思いませんか。
気が強くて口うるさいお姉ちゃん
みたいな感じでしょうか。

むかっときたら、
この裏に自分が感じたのは何だろう。
そう思って、自分の本当の気持ちに
気がついてあげてくださいね。

本当の気持ちに向き合おう
としていくことで、
「怒り」は、
自分は必要とされていないのかなと、
徐々におとなしく、
パワーも小さくなっていきます。

そうすると、この口うるさい姉も
そっと見守ってくれるようになっていきます。

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あの時、何も言えなかった自分をゆるす方法

あの時、
あんなこと言われて
悔しかった。

あの時、
ひどい思い違いをされて、
悲しかった。

一方的に決めつけられて、
私だけが悪いように言われて、
そのまま別れてしまった。

でも、その時は
何も言えなくて、
ただびっくりして、
感情を飲み込んでしまった。

2016/10/27 blog photo by horie sanae

違うって、
伝えたかったのに…。

思い違いだって、
言いたかったのに…。

そんな悔しい、悲しい、
つらい、心残りの記憶だけが
残ってしまう場合があります。

わたくしは、結構幼い頃に
その記憶があります。

お友達の悪口を言っていたと、
広められてしまったのです
(ほんとに数十年昔の話ですよ)。

そのような心残りの記憶が
消化されずに残ったままでいますと、
次の大切なタイミングで、
一歩踏み出せない。
そんなことがあるのです。

そういった心残り、
それはその時、大事に出来なかった
〈自分の本心〉なのですね。

それをしっかり
見つめることが出来たなら、
その心残りを消化してあげましょう。

決して、
言えなかった自分を
勇気がなかったとか、
逃げてしまったとか、
責めたりしないでね。

やることは、
「〈自分の本心〉の思いを遂げる。」
です。

目を閉じて、心を静かにしたら、
あの時を思い浮かべます。

わたくしの大切なお友達に、
「あの子が○○ちゃんの悪口いってたよ。」
と言われてしまいます。

過去のわたくしは、
ビックリして身を翻してしまいます。
嫌われちゃったらどうしよう。
なんでそんなこと言われるの!?

しかしながら、
今度のわたくしは違います。
「まって、わたし悪口なんか、言ってない。」
そう、きっぱりと伝えます。

わたくしと○○ちゃんの仲が
羨ましかったのでしょうか。

○○ちゃんと、もっと仲良くなるために
わたくしを、蹴落とすようなことを
言ったのでしょうか。

例え、そんな考えが浮かんだとしても、
今は、自分の気持ちを優先します。

「わたし、悪口なんか言ってないよ、信じて。」
今度は、○○ちゃんに伝えます。

○○ちゃんは、
「そんなの、知ってる。」
そう言うとにっこり笑ってくれました。

おしまい。
これだけです。

たったこれだけなのですが、
昔の悲しい記憶、悔しい記憶が、
ちょっと引っかかっているような方、
この方法おためしくださいな。
ちょっとスッキリすると思います。

そして、自分の本心を
大切に出来た自分を、
優しく、愛おしんでください。

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無理に断捨離なんてしなくてもいい。

最近の会話で
感じたことをメモしておきます。

2016/10/25 blog photo by horie sanae

断捨離が出来ない、進まない、
というお話を聞いていると、
2パターンに分かれることに
気がつきました。

  • 過去執着型
  • 未来不安型

です。

「過去執着型」は、
昔の楽しかった思い出、
頑張った自分の実績、
などへの未練・執着があり、
その思い出を捨てることが
難しいというパターンです。

結婚式のドレスや小物、
頂いた賞状や、記念品、
果ては、友達の結婚式の招待状や
使う予定のない引き出物、
バブル時代のワンピースや
肩パッド入りのスーツ。
などが捨てられないタイプ。

口癖は
「これって、高かったのよね~。」
「思い出はすてられな~い。」
です。

これに対して、
「未来不安型」は、
〈手に入らない〉ことへの不安、
手元にないことの心細さ、
捨てなければよかったという後悔、
その、将来の不安感情が怖くて
いまは、全然必要ないものを
捨てられないパターンです。

ブランドの空き箱や紙袋、
便利だからと買ったけど
使わない、ホットサンドメーカー
ホームベーカリー、
十年も使ってないお重、
やたらたくさんある傘、
やたらたくさんあるバッグ、靴。
などが捨てられないタイプ。

口癖は
「いつか使うかもしれないじゃん。」
「まだ使えるのにもったいない。」
です。

しかし、いま聞いている話は、
クローゼットが満杯で、
新しいジルサンダーが買えない。
って悩みだったりします。
本末転倒です。

買ってください、新しいワンピース。

わたくしは過去、圧倒的に
未来不安型の蓄積をしていました。

わたくしの場合、残念ながらそれが
貯金に向かわなかったのですが、
いつか足元がグラつく時が来る!
とほぼ確信として信じてたのですね。

生きてきた世代の感じ方も
あるかもしれません、
バブルは破裂するもんだし、
リーマンショックみたいなのは必ずある、
と思ってるんです。

実際自分は、バブルにも
リーマンにも直接的な被害影響は
受けていないのです。
ですが、右肩上がりだけではない、
という確信めいた考えが蓄積されてます。

ここまで読んで、
やっぱり捨てなきゃかな…
そんな風に思われた方、
いらっしゃるかもしれません。

私のおすすめは、
「自分の不安を抱えてみる。」
です。

過去執着型の方は、
思い出を捨ててしまうと、
今までの自分まで捨ててしまうみたいで
心もとない。

その「心もとない気持ち」と
一緒にいてみてください。

未来不安型の方は、
いまあるものが、
将来自分から離れて行ってしまう。
自分の大切にしているものは、
みんな、自分から離れていってしまう。

その「不安」を抱えて
一緒にいてみてください。

棄てられるなら棄てたほうが、
楽になるし簡単な場合もあります。

でも、たぶん。
いま断捨離を躊躇するあなたに、
ほんとうに必要なことは、

「自分の、大切な気持ちに気がつく。」
「自分の、奥底の本心を大切にする。」

そんなことなのかもしれません。

自分が大切にしたい気持ちに気がつくと、
不思議と、手離してもいいかな、
そんな風に思えるときが来ます。

棄てたいと思っているお部屋の不用品たち、
それらも、あなたを守ってきた
大切なものばかり、なのですよね。

いま、無理やり捨てる必要はありません。
ありがとうが感じられたら、
自然と離れてゆきます。

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「ワクワク探し」の前にやらなきゃいけないこと

わたくしは長い間、
本当に好きな事、本当にやりたい事。
というのがわかりませんでした。

←前回の記事はこちら

2016/10/21 blog photo by horie sanae

頭ではわかってるのです。
これが得意。
これをやると褒めてもらえる。

でも、自分の内側から
沸き上がるような楽しさ。というのには、
ついぞ出会えずにおりました。

手当たり次第に
お稽古事やセミナーに通うのですが、
いまひとつ、
これだ!というものには出会えません。

後からわかるのですが、
その時は、「ワクワク」とか
「本当にやりたいこと」なんて
必要なかったのね。

やるべきことは、
『自分の本当の気持ちに気がつく』
ことでした。

そのきっかけを与えてくれたのは、
一緒に働いていたお友達です。

タイから戻ってぷーぷーしているわたくしに、
「会社に戻って来る気、ありませんか?」
と、声をかけていただきました。

嬉しかった。
自分のやってきたこと、
間違ってなかった。
きちんと評価してくれる人がいた。

そうして、わたくしは、
元の職場に、戻らせてもらいました。

戻っては見たものの、
職場をとりまく環境は
著しく変わっていて…。

それでも、仲間と助け合い、
補い合えるという経験をもらい、
改めて、仕事と自分と向き合う
チャンスをもらいました。

でも、つらかった。
お友達がつらい思いをしているとき、
何の助けもできず、
ただ自分の仕事をするだけの自分が。

もっと…もっと、なにか自分に
出来ることがあったのではないか。
もっと、自分に知識があれば。
もっと、もっと自分に権力があれば。

それが、事実でないことは
理性がわかっています。
でも、心の奥底では、
自分をとがめる声が止みません。

私を呼び戻してくれた友達が
他部署へ移動となるのと同時に、
わたくしは、自分の意思で会社を辞めました。

わたくしは、自分をとがめる声の
正体を突き止めたいと、
記憶をさかのぼってみることにしました。

会社員になりたての頃にも
「この役立たずが!」
という心の声を聞いた…。

中学生の頃にも
いじめにあった同級生を助けられず
「あなたなにも出来ないのね…」
という声を聞いた…。

何回か同じ悲しみを見ていくうち、
幼い日の自分に出会いました。

つらい思いをしている母を
ただ、見つめることしかできない自分。
無力で、非力な自分。
情けない、なんてちっぽけな自分!

それからしばらくは、
繰り返し悲しい失意に似た記憶が訪れ、
毎日、泣きながら過ごしました。

幼い頃の悲しみや苦しみ、痛みが、
次々と大きな波のように襲ってきます。
感情の台風に、ただひたすら
呑み込まれて揺さぶられては、
浜辺に打ち捨てられ、を繰り返す日々。

それでも、あきらめずに居られたのは、
数々の不思議な援助があったから。

いろんなサインが、
『あなたは守られている。大丈夫。』
そう伝えてくれていたからでした。

そうしながら、
少しづつ、自分の感情を消化し、
いつのまにか、嵐は去り
静けさの畔にたどり着きました。

そうなの、
自分でも知らないうちに、
貯めて貯めて我慢していた感情や、
幼い頃に得てしまった傷が、
たくさんあったの。

そしてそんな傷たちを仮面で封じたまま
わたくしは、大人になってしまっていた。

そう、
『自分の本当の気持ちに気がつく』

そのためには、
自分すら気がつかないでいる
〈感情の蓋〉
を、こじ開ける必要がありました。

もし、やりたいこと、
ワクワクするっていうことに
イマイチピンと来てない。

そんな方がいたら、
〈感情の蓋〉に
ぴったり封をされているかもしれません。
(してるのは自分なのだけど)

その蓋が開かないことには、
ハートのセンサーがなかなか
ピピっと利いてくれないかもしれません。

〈感情の蓋〉の開き方は、
ちょっと長くなったので、
次回引き続き書いていきますね。

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自分が幸せだって気づいてますか?

「人は、自分が幸福であることを
知らないから、不幸なのである。」

とは、ドストエフスキーの言葉でした。

2016/10/20 blog photo by horie sanae

わたくしは、
こういった説教臭い
蘊蓄がらみの言葉が大好きです。
ははw

言葉は、
知ってるはずの事すらも、
まったく違う角度で
とらえ直すきっかけを
与えてくれたり、

もちろん、
知らないことを教えてくれたりする、
素敵なツール。

そして、
不思議なことに
何度もその言葉を目にしていても
そのタイミングが来るまで、
自分の中に落ちてこない。
不思議なツール。

「人は自分が幸福であることを知らないから、
不幸なのである。」

この言葉も、
そんなこと、言われなくてもわかるわい。
ってような、単純な言葉。

でもなぜか、この言葉が、
すーっと染み入るように
わたしのこころに、
入ってきた時があったのです。

そして、それと同時に
今まで、見聞きしていた言葉が
腹で理解できた感覚がありました。

例えば、
〈幸せを他人に求めない。〉
ですとか、
〈幸せかどうかを、他人と比較しない。〉
みたいな言葉たち。

「幸せ」に関する記載が
わたくしのこころの辞書に、
実にしっくりと収まった瞬間
があったのです。

それは、言語的に意味を理解した
ということではなく、
体感としての理解です。

自分が自分の足で立つということ、
過去の傷に引きずられず、
自分に責任を持って生きるということは、

『自分を幸せにすること』
だと、ふと気がついたのです。

いま、人生に打ちのめされて
生きる気力をなくしていたとしても

思わぬところから
過去の傷と向き合わなければ
ならなかったとしても、

自分の〈意思〉のみが、
問題を解決します。

不幸や不運を数えるのではなく、
幸福を数えることが
〈自立〉なのかもしれません。

それが、〈意思〉を持ち
〈自分の人生を生きる。〉
ということなのかもしれません。

困難に立ち向かう方々の
たくましい姿をみるにつけて
「意思」と「幸福」は、
同じ重みをもった言葉のように
感じられるのです。

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