12日目:私はどこにでも行ける
そうだ 京都、行こう。
って、JR東海のコピーですが、長い事色あせずに使われてきている優秀な「ことば」ですね。いまちらりとググりましたら、最初は1993年だそう。
ぐるぐると考えていたときは、もやもやとした雲くらいだったものが、「ことば」としてそこに表現できてしまうと途端に、もやもやとしていたものがくっきりとしたアウトラインを現し、リアリティを持ってしまう。
「ことば」とは恐ろしいもの。
そして同時に、もやもやとしたものに形を作ってしまう。
「ことば」とは、便利なもの。
そうだ京都、の「そうだ」。
いままでもその存在は知っていたはずなのに、あるときふと腹に落ちる。すとん、と。
日々に忙殺され、プレッシャーに疲弊し、自分を見失いそうになる、息苦しくて無意識に空を仰ぐ、そんなときこつん、と第三の眼あたりに落ちてくることがある。
それが「そうだ」。
ああ、そうだそうだ、どうして忘れていたのだろう。
そうだそうだ、アレがあったよね。
そうだそうだ、そうだそうだ。
繰り返すとなにか印象が違うが、そうだそうだ。
たいてい、「そうだ」の後には記憶のかなたへ押しやられて、忘れられていたものがくっついている。
結構長いこと、おなかの辺りに、もんやりして、なんだか重たくって、ぐんにゃりしたモノがいることに気がついていたわたくし。
だけど、おいしいもの食べても、温かいお風呂に入っても、ヨガをしても、そのぐんにゃりしたモノはどこかに行ってくれる気配が無い。
哀しいとも違う、寂しいとも違う、でも叫びたくなるようなぐにゃぐにゃは、熱を持ちつつ、コンクリートのような重みも持っていた。
しかし、その説明のつかないぐんにゃりしたモノは、いつのまにか処理されることもなく硬いかたまりとなって、わたくしの一部に同化していた。
そのぐんにゃりが、たまに動き出す。
何かのたびに、動き出すぐんにゃり。あー、もうウットウシイ。そのたびに、そのぐんにゃりを扱いあぐね、困惑しつつ、途方にくれていた。
そんなある日、わたくしの第三の眼に落ちてきた「そうだ」。
それには「怒り」がついてきた。
「あ、そうだ。
このぐんにゃり、これって怒りなんだ。」
ぐんにゃりに名前がついた、怒りという名が。
怒り、こんなの忘れていたよね、久しぶり、何年ぶりかしら。
しかしながらわたくしは驚いたの、怒りなんてメジャーな感情すら、自分で気がつけないようになっていることに。喜怒哀楽、感情の四天王みたいなものじゃないの。そんなことすら気がつけなくなっているわたくし、怒りなど人前にさらしてはいけないモノだと、さらには感じてはいけないものだと思い「込んで」いたのかも。
でも、怒りと名前がついたいまなら、それは誰かに説明することもできるし、それに対処することもできる。
いいのよ、大丈夫よ。腹が立つよね、頭にくるよね。
そう感じていいんだよ。そうしてひとつひとつ、自分を赦していこう。
そうだ 善光寺、行こう。
というわけで、次のおやすみに長野方面にまいります。
わたくしはわたくしの意思で、どこにでも行けるのだもの。
たまに「そうだ」の力を借りて。
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