信じる勇気をとりもどす旅

思考、感情、こころの、点と点をつなぎ、本当の自分へ還る方法を探します。

19日目:世界はあなたが作っている

牛に引かれて善光寺参りを「慣用句・故事ことわざ・四字熟語使いさばき辞典」で調べました。

この週末に、長野県の善光寺本堂へお参りにいきました。
またあまり下調べもせずに伺ってしまい、阿弥陀如来様にご挨拶して後ろへ回ると、なにやら下へ行ける通路がありましたもので、ほいほいと階段を降りて行ったのですね。
そこがですね、近年経験したことのない

「暗闇」

前に進む夫も、後ろに居るはずの見知らぬカップルの気配も、一瞬すっ飛ぶ位の暗闇が待っておりました。
と思ったら、後ろの男性がぶつかってきたので、彼も同じようにうわ、なんもみえねー!という感覚だったのかもと思います。

進むにつれ闇は濃くなり、不思議な感覚に襲われます。
まわりの壁との距離感がわからなくなり、ふわふわとした浮遊感が湧いてきました。
繋いでいる手を離したら、夫との距離もわかりません。
と思ったら、足を踏んだりして結構近くにいたり。

「お戒壇めぐり」と呼ばれる(以下パンフからの抜粋)後本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、中程に懸かる極楽の錠前を探り当てて、秘仏のご本尊と結縁する道場(抜粋ここまで)だそうです。

お経だけを頼りに真っ暗な空間で、錠前を探す。
阿弥陀如来様とのお約束だけを信じ、一旦死に、神と結ばれる、とても象徴的な行為です。暗闇の恐怖感、孤独感、そしてそれに打ち勝つ信仰。

わたくしは、暗闇で幼いころを思い出しました。
それは、六歳か七歳、母方の祖母がなくなった時でした。幼いころのわたくしは、やたらと恐怖心の強い子で、怖いものがたくさんありました。

裏山のあるおばあちゃんの家、昔の里山の景色、美しい田園の風景で、それはさながら日本昔話の村はずれの老夫婦の家。
しかしながら、オリンピックに伴い平坦に均一に整備された町で育った、もやしっこのわたくし、何から何まで怖くて仕方ありません。

離れの裏の竹やぶに、なにか居そう。
天井の木目がこっち見てる。
トイレの底に落ちちゃったらどうしよう(いわゆるボットン式です)。
果ては、トイレに飾ってある孔雀の羽でぎゃん泣き(多分恐怖リミッターが羽の目玉で外れたのですね)。

物分りのよい、大人びた子供、といわれていたわたくし。
両親は、恐怖のあまり身動き取れなくなっている我が子を、不思議そうに見ていたのを覚えています。

暗闇、物陰、見知らぬもの。
そんな所は、危険があるのでは?という、いきものが生まれ持った本能により恐怖心が起こるといわれています。要するに「身の危険がありそうだから怖い」。生態学的機能としてはいたって妥当です。

想像力の豊かだったわたくし、障子の作る薄闇や竹やぶの作るさらさらと動く影。そこかしこに闇へ手招きするものの気配を感じておりました。
それからわたくしは、魅入られるように闇をみつめました。手招きするものの正体を、その形を、この眼にとらえようと。
眠るときには暗闇に眼をこらし、天井の木目が動き出すのを必死で追いました。

もちろん、見えていません。なにも。
そうなのです、恐怖は自分の心が作っているのですよね。

それから大人になり、むやみやたらと闇を怖がるということはなくなりました。
しかし、この善光寺へのお参りで思い出された幼い日の記憶が、またひとつ、ふたをしていた感情を思い出させてくれたようです。

幼い日経験した「死の恐怖」。
大人になった今再びそれを経験することで、その恐怖が実はとてもありがたく、いま生きられている事実、周りの方々への感謝と結びついていることを感じます。

「恐怖」「恐れ」それ自体はマイナスの感情ですが、マイナスの感情には、いまあること、いま自分にあるものへ眼を向けさせてくれる作用があります。

恐怖を恐怖とだけ捉え、おびえて生きるか、
恐怖の底にあるものへ眼を向け、自分と相対するか、
それは、自分の心に従えばよいのでしょう。

自分の心に写る世界、それがあなたの作り出す世界なのだから。

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